甘い香り
青く澄み渡った空と、ところどころに浮かぶ大小さまざまな形の雲。
暖かい陽射しが辺りを包み、鮮やかに咲き乱れた色とりどりの花々が風にそよぎ舞い踊る。
木々の隙間から零れるように降り注ぐ陽の光にキラキラと反射して美しく輝く湖面。
そのすぐ近くにそびえる木の根元に探していた相手を見つけて知らずほっと息を吐いた。
那岐は優雅にそびえる木にその身体を預けていた。
その瞳はしっかりと閉じられている。
自分とはまた違った色素の薄いその髪がきらきらと光に照らされ
透けているように見えて、まるでいつか見た綺麗な夢の世界だと思った。
どこか神秘的で近寄りがたいその光景に少し躊躇いながらも
足音を立てないように静かに那岐の傍まで近づいた。
「那岐?」
とりあえず声をかけてみるけど、返事の代わりに耳に届くのは規則正しい寝息だけ。
わかっていたことだけど、起きて欲しいと思うのは自分勝手だろうか。
やっとのことで復興した中つ国。
けれどまだ問題は山積みで、私は王として、
那岐は王族として、少しでも早く民が安心して暮らせる国にする為に
執務に追われる多忙な毎日。
自分で決めたことだからそれを嫌だとは思わないけれど、
昔のように二人で過ごす時間はほとんど無くなって、
こうやってきちんと顔を見たのも本当に久しぶり。
それを少しだけ寂しいと感じる。
今だって風早達が上手く調整して作ってくれた貴重な休憩時間。
それでもそんなに長くは休めない。
風早がちょうど那岐も休憩してると教えてくれて、急いでここにやってきた。
きっと那岐はここにいる。
確信にも似た予感を胸に足を動かして。
ここは私と那岐、二人だけの秘密の場所。
橿原宮から少しだけ離れたこの場所は、
あまり人が寄り付かず心地よい静寂に包まれて
絶好の昼寝ポイントだと教えてくれたのはいつだったか。
女性のように長いまつげも、
その奥に隠れる新緑のような鮮やかな瞳も、
すっきりとした鼻筋も、
優しい色彩を放つ柔らかな髪も、
その全てがとても懐かしく、愛しく思う。
「少し、痩せたかな…」
瞳の閉じられた顔を覗き込めば以前よりもどこか細くなった気がして、ズキッと胸が痛んだ。
那岐に無理をさせているのは他でもなく自分で。
「ごめんね…」
気がつけば頬を涙が伝っていた。
本当なら那岐はこんな風に人々に囲まれて過ごすのを好きじゃない。
王族だということも那岐にとってはどうでもいいことだと言っていた。
それでもこうやってここにいて、王族としての務めを果たしてくれるのは、
離れたくない、傍にいて欲しいと私が言ったから。
私がいなかったら那岐はもっと自由に生きれるのに。
いつだって自分の我が儘のせいで那岐を苦しめてる。
わかっているけれど、それでもどうしても那岐と離れるなんてできなくて。
那岐の優しさに甘えてる。
それでも―――
「もう、離れたくないの……」
小さく呟き、そっと目を伏せる。
脳裏に浮かぶのは一人立ち去る那岐の姿。
どうしてと声を上げても、
行かないでと手を伸ばしても、
何も言ってくれなかった。
一人で全てを終わらせようと目の前から姿を消した那岐。
傍にいるのが当たり前で、いなくなって初めてその存在の大きさを知った。
近すぎて気づけなかった一番大切な存在。
思い出すだけで心臓が掴まれたように苦しくなる。
「離れる必要なんてない」
不意に耳に届いた優しい声に目を開けば、那岐の翡翠の瞳と目が合った。
「……起きてたの…?」
「こんな近くで気配がすれば嫌でも目が覚めるに決まってるだろ」
「なっ…!」
一体いつから起きていたのだろう。
恥ずかしくて顔に熱が集まるが、そんな私を那岐は少し意地悪な目で笑っている。
抗議の声を上げようとしたが、自分の頬を伝うものを思い出し慌てて手で拭おうとした。
けれどそれは叶わず、いきなりぎゅっと手首を掴まれたかと思うとそのままぐいっと引っ張られた。
突然の出来事に当然だが頭も身体もついて来ず、バランスを崩して那岐の胸に倒れこむ。
驚いて硬直したまま身体をふわりと抱きしめられ、心臓が爆発しそうなくらいドキドキしてる。
密着した身体で感じる優しい温もりと、全身を包むように香る那岐の香り。
那岐特有の香りが鼻腔をくすぐる。
なぜかとても心地がいい。
どこか甘いように感じるのは周りに咲き誇る花々の香りの影響だろうか。
倒れこんだ体勢のまま抱きしめられたおかげで那岐の顔は見えないが、それでよかったのかもしれない。
きっと私の顔は信じられないくらい真っ赤だろうから。
黄泉路から戻ってきてお互いの気持ちを確かめ合ったとはいえ、抱きしめられることには未だに慣れない。
「千尋はさ、いろいろ背負いこみすぎなんだよ」
「那岐?」
「なんでもかんでも自分のせいにして。どうせまたくだらないことで悩んでたんだろ」
どこか呆れたように呟かれた言葉。
同時に、抱きしめる腕に力がこもった。
「僕がここにいるのは僕が千尋と離れたくなかったからだ」
「な…ぎ……」
「別に千尋のせいじゃない」
まあ確かに少し面倒なことにはなったけどね、
と苦笑交じりに続けられたけどそれはもう私の耳には届いてなかった。
告げられた言葉に止まりかけていた涙が再び溢れる。
けれど今度の涙は悲しみではなく喜びの涙。
とめどなく溢れる涙を見られたくなくて、那岐の服を掴む手に力を込める。
那岐の手が動く気配がしたかと思ったら、次いで訪れる優しく頭を撫でる感触。
何を言うわけでもなくただ黙々と頭を撫でるそれは、那岐が私を励まそうとする時にする行動。
言葉で優しく励ましてくれる風早とは違い、那岐は何も言わずただ私が泣き止むまでひたすら頭を撫でてくれる。
昔から変わらない、不器用な彼の優しさが好きだった。
しばらくそのままその優しさに身を委ねる。
「那岐」
「何」
「ありがとう、傍にいてくれて」
遙か遠い世界でも、この豊葦原でも、ずっと傍にいてくれて。
那岐が傍にいてくれるだけで幸せを感じられる。
抱きしめられるだけで心が満たされていく。
「これからも、ずっと傍にいてくれる?」
覗き込むように翡翠の瞳を見上げながら問えば那岐はその瞳を大きく見開く。
思わずこんな顔滅多に見られないなぁとかどこか的外れなことを考えてしまった。
けどそんな表情も一瞬で、那岐は今までにないほど優しく微笑むと
「千尋がそう望むなら」
そう言って涙の痕の残る頬に口付けを落とした。
遠くで風早が自分を呼ぶ声がする。
きっともう休憩時間が終わりなんだろう。
でも、もう少しだけ那岐の甘い香りに酔っていたい。
そう思ってその胸元に顔を埋めた。
END
那千祭投稿作品
2008.09.28